「横綱 72人の選ばれし者たち」関連イベントで大至さんが甚句を披露

横綱大鵬顕彰コーナー4周年記念展示
「横綱 72人の選ばれし者たち」 関連講演会
横綱のはなし~その歴史と私の見てきた横綱~

深川江戸資料館で開催された「横綱 72人の選ばれし者たち」の関連講演会として、相撲教習所で相撲史を教えておられたこともある、江戸東京博物館名誉館長の竹内誠先生と、元押尾川部屋の力士で相撲甚句の名手・大至さんを迎えて講演が行われました。その模様をお2人のインタビューとともにお届けします。まず第一弾は大至さんのインタビューです。

僕を強くしてくれたのは“相撲甚句” 
~元幕内力士・大至さん~

 

 

柝を打ちながら、粋な着物姿で登場した大至さん。力士時代に在籍した押尾川部屋があったのが深川江戸資料館と同じ江東区(木場)。そんな縁もあり、当時の思い出を交えての楽しいお話とともに甚句を披露してくださいました。そこで、楽屋にお尋ねして、大至さんと甚句について伺いました。

―まずは相撲甚句とは、どういうものなんでしょうか。
もともとは芸者さんが歌っていたものと聞いています。おすもうさんが遊びに行ったときに、芸者さんが相撲の攻めの型、守りの型を見せながら甚句を歌ったそうです。それをおすもうさんたちが「おもしろいじゃないか! 巡業でやってみよう」ってことになったんですね。

―へぇ~。遊び心がありますね。
昔の巡業は一門でまわってましたから、今よりも少人数でした。時間をもたせるのも大変だったようです。そこで、余興として相撲甚句を取り入れて、興業として成り立たせていったそうですよ。

―そんな歴史があったんですね。大至さんが甚句をはじめられたきっかけは?
母親がずっと甚句を歌っていて、子どもの頃にそれを聞いて覚えました。だから、入門前から歌ってたんです。

―それで、巡業で歌うようになったんでしょうか?
実は、幕下時代になかなか番付が上がらず低迷していた時期がありまして、その状況を打破するには、巡業に出て他の部屋の力士と稽古しないとダメだと思ったんです。けれども、僕がいた押尾川部屋は、みんなが毎回巡業に出られるわけではなくて、交代で出ていたんですね。そこで、毎回出るにはどうしたらいいだろうって思って、そこで「甚句だ!」と。親方に直談判しました。「甚句が歌えるから毎回出してください」って。

―で、出られたんですか?
いえ。今は定員がいっぱいだからって断られちゃいました。でもね、忘れもしません。平成4年の4月。春巡業で横浜だったと思います。遠くから若者頭が「大至~!大至~」って呼ぶんです。「甚句の歌い手が一人いなくなっちゃったから、お前いけるか?」って。

―えっ!急ですね。
はい。突然きました。もちろん「はい、行けます」って。その日から歌いだしたんです。そしたら「お前そんなに歌えるんなら早く言えよ」って言われて(笑)。

―言ってましたよね?
言ってました。甚句って、前唄、後唄、本唄、はやしと4つのパートに分かれているんですが、最初の2~3日は前唄を歌ってたんです。でも、甚句の兄弟子に「それだけ歌えるんならもう本唄いけ!」って言われて、そのなかでもトリを歌ってました。そしていつのまにか甚句の大至っていわれるようになったんですよ。

―それからずっと歌われてたんですか?
はい。毎回巡業に出られるようになりました。

―稽古も十分できるようになったんですね。
それが、問題がありまして……。そのころはまだ巡業でちゃんこを作っていたので、ちゃんこ長もやりながらだったんです。そうなると、ちゃんこの買いだしに時間を取られて稽古がぜんぜんできないんですよ。そこで時間の使い方に工夫をしたんです。巡業のスケジュールは巡業が終わったらその日のうちに次の巡業地に移動して、翌日興業なんですが、着いたその日のうちに買いだしを済ませちゃうんです。で、メニューを決めて、弟弟子たちにこれとこれを準備しとけって指示して稽古に出て、戻ってちゃんこ作って、甚句やってっていうのを続けました。

―ハードスケジュール!
でも、そのおかげで1年後に関取に上がりました。だから、僕を強くしてくれたのは甚句なんです。

―なるほど。でも、関取に上がってうれしい反面、甚句が歌えなくなったのでは?
*通常、甚句は幕下以下の力士が担当する。
それが、先代の二子山親方(元大関・貴ノ花)が「本当は若い衆の仕事だけど、歌ってくれるか」って言ってくださって、十両でも幕内に上がっても歌いました。

―もう甚句といえば大至さんだったんですね。
でもね、まだ幕下の頃は知られてなくて、甚句の時間ってお客さんにとってはお弁当の時間なんです。耳では聞いてるけど目はお弁当(笑)。ところが、僕が歌い出すと、「お?」って感じでこっちを見てくれるんです。土俵の上から見てると、頭がパッパッパっと上がって行くのがわかるんです。そして歌い終わるとみんな拍手してくれて。気持ちよかったですね~。

―大至さんの声は本当に素敵なんですが、あの独特の節回しは決まりがあるんでしょうか?
あれは歌う人によってそれぞれで、僕はあらゆる相撲甚句のCDを買いあさって、四六時中聞きこんで、この人はこの節がいい、この人はこの節がいいってとこをいいとこどりして、自分の節を固めていったんです。

―歌詞はご自身で考えられるんですか?
考えるときもありますし、昔から歌われてる古典もあります。冠婚葬祭で歌うことも多いんですが、新郎新婦のなれそめや、お葬式では故人の一生を甚句にすると喜ばれます。自分の両親の葬儀でも歌いました。

―それは特にお母さんは喜ばれたでしょうね。
喜んでくれたと思います。

(画像提供:深川江戸資料館)

―今日歌われた甚句について教えてください。
今回は横綱に関する展示の関連講演なので、大横綱・大鵬親方の甚句を歌わせていただきました。この作詞をされた甚句の先生が、せっかく横綱展だから、これを歌ってはどうかってアドバイスしてくださって。

―聞き入ってしまいました。生まれてから親方になられて、相撲界の伝説となるまでが歌われているんですね。

大相撲永遠(とわ)のシンボル
昭和の大横綱・大鵬幸喜
詞 下家義久

ハアーエー
我らが大鵬 甚句に詠めば ヨー

アー 樺太生まれの快男児
北の大地を転々の
苦労も ものかはまっすぐに
志したる力士道(りきしみち)
汗と努力でつむいだは
天才に勝る綾錦(あやにしき)
柏鵬時代の名を上げて
大横綱の道歩み
出世や優勝 大勝負
記録更新 そのたびに
日本全国の人々に
国技相撲の心技体
真価を伝えて半世紀
常に協会大看板
大嶽部屋の始祖として
輝く光はいつまでも
角界誇りのシンボルよ
大きく広げた つばさもて
永遠(とわ)に羽ばたけ ヨーホホイ
アー 九万里 ヨー

―では、最後に大至さんの今後について教えてください。
相撲甚句だけでなく、ミュージカルにもチャレンジさせていただいています。今度はディナーショーで元宝ジェンヌと共演させていただくんです。

―それは楽しみ!
はい。自分でもコンサートを企画したりしていますが、でも、僕の土台となっているのはやっぱり相撲ですから、相撲の魅力を伝えるようなお話をしながら舞台に結びつけていけたらと思っています。

大至(だいし)
茨城県日立市出身。押尾川部屋所属の元大相撲力士。最高位は前頭三枚目。昭和59年三月場所で初土俵、平成5年五月場所で十両昇進、平成6年七月場所で入幕を果たす。平成2年三月場所で引退。子どもの頃から歌うことが大好きで、実は歌手になりたかった。引退後は夢をかなえるべく歌手の道に。甚句はもちろん、ポップスやミュージカルでも活躍中。10月20日(土)には表参道シャルマンシーナ東京にて、元宝塚・愛音羽麗さんとのディナーショーに出演予定(問合せ:株式会社パッション03-3173-2821)

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