よくわかる大阪相撲~その① 歴史編~

現在開催中の大阪場所にちなんで、今回は「大阪相撲」の特集です。江戸での相撲に比べて資料や研究も少なく謎が多い大阪相撲ですが、前半では大阪相撲のおこりから歴史をひもとき、後半では大阪の街の「おすもうブラリ」をご紹介したいと思います。

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大阪相撲の歴史

*以下の内容は、『力士鑑賞相撲見物手引き』(横井春野著、大正11年、野球界社)、『大阪相撲:大日本』(佐々木由治郎著、明治43年、佐々木由治郎)、『相撲大事典 第4版』(金指基著、平成28年、現代書館)、平成19年大阪府立中之島図書館 大阪資料・古典籍室78回小展示「大阪の相撲展」の資料を参考にまとめたものです。

大阪相撲は、江戸時代の元禄年間に勧進相撲として始まったといわれます。

場所は今の大阪府立体育館のある難波からも近い、堀江新地。元禄15年に堀江開拓の費用を集めるために開催されました。

その後、難波新地での勧進相撲も許され、堀江と難波、交互に開催されるようになったとか。

江戸での勧進相撲との大きな違いは、江戸は寺社奉行の管轄であったのに対し(番付の「蒙御免」は寺社奉行の許可済という名残)、大阪は町奉行所。新地開作が目的であり、大阪商人が大阪相撲の発展に大きくかかわりました。

今も昔も大阪の人は相撲に熱狂し、『摂津名所図会』には、難波新地で開催された勧進相撲の様子が描かれていて、その盛況ぶりが伺えます。

(資料提供:国立国会図書館)

18世紀末ごろから、毎年江戸、大阪・京都で定期的に相撲が開催されるようになりましたが、大阪相撲は江戸から、「中頭(ちゅうがしら)」とよばれ、ちょっと軽蔑されていたような感じで、東西で対戦の際、大阪の幕内力士は江戸の二段目と組まされたとか。

ときに強い力士が大阪に出ても、すぐに大名に召し抱えられ、参勤交代にともなって江戸に行ってしまったそうな……。

けれども、時代が変わり明治の世には、大阪相撲も盛り返し、番付は2枚では間に合わず、3枚刷りになったとか。
*当時の大阪・京都相撲の番付は東西各1枚ずつに書いた2枚ものでした。江戸では宝暦年間から1枚ものに。

明治4年の番付は『力士鑑賞相撲見物手引き』(横井春野著、大正11年、野球界社)によると、

頭取(「年寄」のこと):16名
相撲取り:785名
行司:46名
世話人:93名

現在の日本相撲協会所属力士は約650人ほどなので、かなりの人数です。

東西の力士の実力の差を物語るエピソードが伝えられています。明治7年5月、東京・大阪合併相撲が京都四条河原で開催されたとき、

東京方「大阪は“中頭”でしょ」

大阪方「なんやと!そんなん昔の話しや!今の実力で行こうや!」

と平行線をたどり、勧進元が

「もう、わしが腹を切って申し訳を・・・・」と言い出す始末。

これで東京方も納得して、東西とも幕内同士で組んだのだそう。けれども、『力士鑑賞相撲見物手引き』によると、実力は6:4で差があったとか……。

このころ、大阪相撲では旧来のやり方をあらため、成績によって番付が上下する方式に切り替えましたが、これを不服に思った力士が脱走、東京へ加入するものが現れ、その後脱走は頻発し、大阪相撲は危機に瀕することに。

しかし、そこで……

小林・吉備両氏の尽力で、力士の脱走を思いとどまらせ、ついに「大阪相撲協会」の設立に至ります。とはいえ、何の権威もなく、大阪で大関を張った力士が東京へ行っても三段目程度の扱いをされたとか。

そんな中、新たな波が……。

大鳴門・真鶴の二人の力士が中心となり、約80人の同士とともに「広角組」なるものを立ち上げて独立。大阪相撲協会に大打撃を与えます。

大阪の番付や勝負付を発行していた版元・佐々木由治郎の著『大阪相撲:大日本』(明治43年、佐々木由治郎)には、自社が発行した広角組の番付が掲載されています。東の大関には大鳴門太三郎、西の大関に真鶴政吉、立行司の位置にはなんと木村伊之助!

けれども、広角組は長くは続かず、明治28年には大阪相撲協会と和解しています。

広角組との和解を機に、大阪相撲協会も落ち着いたかと思いきや、何かと小紛争をくり返し、明治38年、朝日山四郎右衛門が取り締まりとなって、地位が確立されるも……、力士の実力はなかなか東京に及ばず。

明治43年大木戸森右衛門の横綱問題が勃発。

大木戸は明治41年から三場所連続全勝優勝につき、大阪相撲協会は横綱免許を吉田司家に申請するも許されず、独自に与えてしまいます。これをよしとしない吉田司家は大阪相撲協会を破門し、東京の協会とも絶縁に。

絶縁状態にあった東西の協会の和解が成立。大木戸森右衛門も晴れて横綱免許が与えられました。

 

明治42年、回向院横に建てられた初の相撲常設館である旧両国国技館に続き、日本全国に次々と国技館がオープンしました。明治42年12月には横浜常設館、明治45年2月には浅草国技館、明治45年6月には京都国技館、大正2年10月には熊本肥後相撲館、大正3年2月には名古屋国技館、大正4年7月には富山国技館。そして、お待たせしました。ついに大正8年9月、大阪名物・通天閣のお膝元、新世界に大阪国技館が堂々開館!

鉄筋コンクリート・煉瓦造りの建物は、両国の旧国技館のようなドームを持ち、収容人数は約7000人。大阪名所として絵ハガキも残っています(いずれも「大阪市立図書館 デジタルアーカイブ」より)。第28代横綱・朝日山が大阪市より土地を借り受けて建設したもの。残念ながら、昭和の戦前に取り壊されました。

現在の大阪市浪速区恵美須東3丁目4番(スパワールドの裏手、ビリケン神社近く)に石碑が立っています。

東西合併後、相撲人気は衰えることなく、全国国技館ブームの最後となる別名「関目国技館(せきめ)」が大阪市旭区関目町にオープン。開館を記念して木村庄之助が土俵祭の祭主を務め、開館記念大相撲では第35代横綱・双葉山と大関・清水川による三段構えが披露されました。

旭区関目の大阪大国技館の外観と内観(いずれも画像は城東区役所所蔵)。旧両国国技館と同じ円形で、収容人数は約2万5000人を誇りました。戦争の勃発により、昭和15年からは軍需工場となり、戦後は進駐軍に接収され、再び相撲が行われることなく取り壊されました。

東西相撲協会合併を経て新たな出発を果たした大相撲ですが、第二次大戦で中断を余儀なくされます。

戦後、大阪に相撲が戻ってきたのは、昭和23年、福島公園に仮設の国技館を建てて開催されました。

その後は毎年大阪で相撲は開催され、昭和28年より初場所、春場所(大阪)、夏場所、秋場所の年4場所制となってからは毎年春に大阪場所が開催されています。

よくわかる大阪相撲~その②~では、相撲にゆかりのあるスポットを訪ねる大阪おすもうブラリをお届けする予定です! お楽しみに~。

現在、東京両国国技館に併設の相撲博物館では「大阪と相撲展」を4月19日まで開催中。

相撲博物館の詳細はコチラ

おすもうさんでは、相撲博物館学芸員の方に、企画ができるまでの裏話などを伺いました。インタビュー記事はコチラ

illustration / tentento

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