国技館のおひざもと、両国をブラリ

おすもうにゆかりの地をブラリする「おすもうブラリ」のコーナーでは、エリアごとに観る、食べる、お参りするスポットを紹介します。第一回目はもちろん、おすもうの聖地!「両国」。本場所があるときもないときも、おすもうの雰囲気が漂う街です。

 

ブラリの始まりはJR総武線・両国駅。国技館へ行くのに便利な西口を出ます。国技館へは改札を出て右。今回は左へと向かいます。すると正面に見える門が「諸宗山 無縁寺 回向院」。まずはこの回向院を目指しましょう。

 

回向院までの国技館通りにも、おすもうなアイテムがあちらこちらに。歩道に建てられている力士像の土台には、力士の手形が。そして、目線を下に。歩道のレンガ、何やら四角い模様。実はこれ、国技館のマス席と同じ大きさなんだとか!一辺が1.3mの正方形です。

江戸の三大大火「明暦の大火」と回向院

そうこうしているうちに、回向院に到着。江戸は明暦3年(1657年)の開創です。俗に「振袖火事」といわれ、江戸三大大火の一つに数えられる「明暦の大火」で亡くなった多くの無縁仏を弔うために、徳川家綱公の命によって墳墓が建てられたのが始まり。だから、宗派は関係なく「諸宗山」。当時は隅田川には千住大橋しかなく、そのため逃げることができずに被害が拡大したことから、その後、両国橋や永代橋がかけられました。そのときかけられた両国橋は実は今より少し南側で、回向院の表参道はもともとこの橋に続くように作られていたそうです。本堂も隅田川を向いて建っていました。

両国という地名の由来とは?

ここでひとつ歴史トリビアを。みなさん、なぜこの地を両国というかご存知でしょうか?その昔、隅田川より東は下総国、西は武蔵国でしたが、江戸時代に両国の地も武蔵国に併合されます。つまり、下総と武蔵2つ合わさったから両国という説。さらに、両国橋の西詰め(現在の浅草橋あたり)を西両国、東詰めを東両国といって、二つ合わせて両国、という説もあります。

勧進相撲での初の常場所興行地

江戸時代の相撲は寺社が本堂などの普請や修繕の費用集めのために開催していた「勧進相撲」が主でした。ただし、どれも単発興行だったのに対し、回向院では初めて年2回、晴天10日間の常場所興行として開催されたのです。その理由としては、回向院は多くの無縁仏が眠っているため、お参りに来る人も膨大であることと、回向院名物「出開帳」(寺社の秘仏などをほかの場所で公開すること)もあり、常に多くの人が集まる場所であったことが考えられます。さらに、両国橋直結という交通の便もあり、じゃぁ、ここで年2回相撲やったらよくね?ってなわけで、春秋2場所が開催されるようになりました。当時、火事の延焼を防ぐために、橋のたもとには広小路が設けられ、見世物小屋や屋台が立ち並ぶ盛り場となっていましたが、ここ両国橋の広小路もしかり。浅草と並ぶ二大盛り場として大いに栄え、回向院はますます発展を遂げたのです。

江戸時代に出版された3枚続きの錦絵「東都名所 両国回向院境内全図」。筆は歌川広重によるもの。向かって右に隅田川が流れ、参道の延長線に当時の両国橋がかけられていた。真ん中にある巨大な小屋が相撲小屋。ちょうど中央に土俵の屋根がひょっこりと出ている。現在は、本堂は90度時計回りの方向を向いて建っており、表門は当時の北裏門にあたる。(都立中央図書館TOKYOアーカイブより *画像の無断複製や二次使用は禁じられています。)

 

巨大相撲小屋から日本発の常設相撲場「国技館」の誕生

当時の土俵はちょうど今の両国幼稚園のあるあたりだったと思われます。場所ごとに建てては壊す、巨大な小屋のようなものだったよう。上の錦絵『東都名所 両国回向院境内全図』にも描かれています。

明治のころになると、常設の相撲場を!との声が高まり、いよいよ明治42年の旧国技館完成となるのですが、この旧国技館は、回向院の方丈や庫裏を壊して建設されました。もともとは無縁寺として始まった回向院だけに、工事中にはたくさんの遺骨が発掘されたそうです。当時の東京大角力協会が供養のために無縁塔を建てたものが今でも残っています。

この旧国技館は第二次大戦中は軍需工場として使われ、戦後は進駐軍に接収、その後日本大学に買い取られて「日大講堂」として使われていましたが、現在は集合住宅や商業施設が建っています。コの字形の建物の中央は自転車置き場なのですが、何やら丸い形が……。これ、当時の土俵があった部分が残っているそうです。まったくインスタ映えどころか、写真映えすらしませんが、よかったらこちらも足をのばしてみてはいかがでしょうか。

(左)右上から時計回りに、本堂入ってすぐの龍の天井絵、副住職の本多さん、回向院でくつろいでいた猫ちゃん。(右)左から、力塚、呼出先祖代々の墓、無縁塔。

おすもうファンは「力塚」と「呼出の墓」へ

回向院のみどころといえば、本堂の手前にある「力塚」。代々年寄を供養するために昭和11年に建てられたもの。毎年9月のお彼岸前後に親方衆と相撲記者クラブ会員が集まって法要が営まれています。力強い「力塚」の字は、徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)氏によるもの。そして、昭和40年代に建てられたモダンな本堂は、入ってすぐの天井に龍の絵が。その下で手を叩いてみてください。龍の鳴き声が…聞こえます!

本堂を出て右に行くと墓地があります。おすもうファンなら、「呼出先祖代々の墓」(太鼓塚)へ。大正2年に建てられ、何度か焼失して現在のものに。毎年五月場所後に現役・OBの呼出が集い、法要が行われています。

 

おすもうとは関係はありませんが、墓地には江戸時代の浄瑠璃語り・竹本義太夫の墓もあります。浄瑠璃ということで三味線のために犠牲になった犬猫を供養するための塔もあり、三味観世音が祀られ、三味線のバチの形をしています。そのほか、ご存知、鼠小僧次郎吉のお墓も多くの人が訪れています。

回向院  東京都墨田区両国2-8-10

せっかちな江戸っ子が考えた国技堂の「あんこあられ」

回向院を出て、きた道を戻りましょう。国技館通りの東側にある「国技堂」は大正12年創業の老舗。もともとは果実店としてスタートし、2代目が何か国技館のお土産をと「あんこあられ」を考案。国内産のもち米を白醤油でカラッと焼いた俵型のあられと、あんこ型の力士(どっしり体型)にちなんだこしあんの組み合わせ。甘いものもしょっぱいものも一緒に食べたい!というせっかちな江戸っ子の発想から生まれたとか。

右が「あんこあられ(8個入り400円)」、左はあんこのか

りに納豆をのせた「ねばりごし(8個入り450円)」

店内奥と2階には甘味どころも併設。せんべいをソフトクリームに混ぜ込んだ「おせんべいアイス」は香ばしい香りが口に広がるおいしさ!おせんべいアイスのせクリームあんみつ(730円)は、もちもちの白玉と北海道産赤えんどう豆も入って、上品な味わい。カレーなどの軽食も人気です。

店内では相撲グッズも販売。先代が描いたおすもうさんイラスト入りのオリジナル商品も。喫茶メニューのあんこコーヒー(480円)。砂糖の代わりにあんこを入れて。コーヒーとあんこ、合います!

 

国技堂

東京都墨田区領国2-17-3

10:00~20:00 不定休

03-3631-3856

宝牧豚に惚れ込んだオーナーが作る絶品メンチ

国技堂さんを出て両国駅方向へ少し行って右へ曲がったところに、謎の看板が……「焼きドーナツ/両国メンチカツ」。お菓子屋なのか!お惣菜屋なのか! 不思議な組み合わせのこのお店、もともとは焼きドーナツのお店。店を閉めることになり、横浜で精肉卸を営んでいた知り合いに何かやらない?ともちかけたところ、ちょうどオーナーの藤岡さんが「宝牧豚(ほうぼくとん)」に出合い、これで何かできないかと思っていたところだったのだとか。渡りに船ということで、4年前に宝牧豚のメンチカツ、名付けて「両国メンチカツ」の店をオープンさせました。スペースも余ってるし、どうせならドーナツもおけば、ということで、ドーナツも引き続き販売しているのだそう。メンチは買ってその場で熱々をほおばるか、国技館観戦のお供に、そしてふわふわの焼きドーナツはお土産に、というのもオススメ。

九州は天草産の宝牧豚は、自然の中で放牧された母豚から生まれた免疫力の強い豚。抗生物質もホルモン剤を一切使用しない飼料で育てられるため、臭みがなく旨味と甘味の詰まった味わいです。そんな豚肉に企業秘密の味付けをほどこし、上質の油でカラリと揚げたメンチカツは、肉汁たっぷり、脂っこくなく後味スッキリ。1個200円(生のお持ち帰りや発送も可)。左は自慢のメンチカツを片手にオーナーの藤岡さん。

両国メンチカツ

東京都墨田区両国2-18-3

10:30~18:00(土日祝日は11:00 ~17:30) 無休

03-6666-9530

おすもうブラリ「両国」つづく・・・

「おすもう」のある街・両国に住んでみよう!

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