いよいよ2018の年初場所がはじまりますね!
その前に、去年の九州場所のおさらいを増位山さんと一緒におさらいしましょう。
増位山さんには、今年の展望、さらには歌手活動についてもお話を伺いました♪
十一月場所
主な出来事:白鵬が40回目の優勝。安美錦が史上最高齢で再入幕。
平成版『涙の敢斗賞』
――先場所では、アキレス腱を切って番付を下げていた安美錦関が、最高齢での再入幕。さらに敢闘賞を受賞しました。
靭帯よりアキレス腱のほうがひどいからね。昔、『名寄岩 涙の敢斗賞』って映画があってね。名寄岩さんが、病気やけがで大関から陥落して、その後に敢闘賞とって映画になったんですよ。そういう逆境になって、それでも頑張って敢闘賞をもらうっていうのは、やっぱり人の心を打つんだよね。作ろうと思って作れるものじゃないから。ドキュメンタリーだから。素晴らしいよね。
――ベテラン力士も活躍していますね。
安美錦と豪風、お互い励みになってるんじゃないかな。「おまえには負けないぞ」って。
――同い年や同期入門は意識するものですか。
私はしましたね。私は高校3年の3学期の1月から土俵に上がってたんだけど、同い年で中学卒業で入って来たら、もう3年も経験がある。幕下の中堅どころにきてるの。生まれが昭和23年だから、同い年がいっぱいいるんですよ。それに追いつくことが最初の目標でしたね。最初も意識したし、引退するときも意識しましたよ。あいつがやってるならまだやれる、って。
雰囲気のあるジャケ写にシルバーのペンが映える!
若手はみんな化けてほしい
――今年は若手の台頭もありました。注目している若手はいますか?
活躍した若手の力士は、みんなそれぞれ思い切りのいい相撲をとっているし、いいと思いますよ。稽古をたくさんして、ケガのない体を作ってほしいね。注目している力士……力士って難しいんですよ。最終的なことが力士の結果で、途中を論じるというのが難しい。どこで化けるかわからない。ひとつ技を覚えると化けるんですよ。千代の富士だって、今まであんな相撲をとってたのにっていうのが、左上手をとるようになってから、見事に大化けしました。若手はみんな化けてほしいよね。「うらめしや~」っていう化け方は困るけど。
師匠が一番つらいのはスカされること
――スカウトってどうやってするんですか?
地方の後援者とかが教えてくれるんです。うちのおやじが昔、倉吉(鳥取県)のほうに、いい若者がいるよって言われたんですけど、部屋が貧乏だったから、そこに行くお金がなくてあきらめたの。そしたら、その若い子が佐渡ケ嶽部屋に入って。それが横綱までいった琴櫻さんだったんだって。それをおやじは悔しがっていてね。だから「いい人がいるよ」って言われたら、借金してでも行ってこいって言われましたね。どこに金の卵がいるかわからないから。相撲は、何年か稽古してみて、原石を磨いてみないと本当にわからないんですよ。ガリガリに痩せていても白鵬みたいになることもある。だから面白いんです。
――部屋持ちの師匠になって一番つらかったことはなんですか。
一番つらいのは、目をかけている力士がスカしたとき*ですね。あれは、なんとも言えない喪失感というか、情けないやら寂しいやら。どの師匠も同じ気持ちだと思いますよ。ある部屋で、大阪出身の子がスカして、東京から大阪まで自転車で帰ったっていうの。その根性があるなら、力士つとまるだろう!って(笑)。土俵の下には金銀財宝が埋まっているというたとえ話を真に受けて、辞める前に掘ったやつもいるらしいですよ(笑)。でも、スカしたからといって、番付が上がらないっていうわけじゃないんだよね。髙安も何度もスカしてるでしょ?でも大関までいってる。何があるかわからない世界ですよ。
*相撲用語で力士が部屋を無断で逃げ出すこと。
地方場所のみやげ話を聞いて「力士になりたい!」
――増位山さんはおうちが相撲部屋ですが、力士と一緒に生活していたんですか。
生活はしないけど、年がら年中若い衆の部屋の入りびたりでしたね。いろんな話をしてくれるんです。地方場所から帰ってきたら、こんな美味しいもの食べた、とか。いいな~と思って聞いていてね。そういうのに憧れて力士になったんです(笑)
増位山さん自ら貼ってくださった千社札!家宝にします!
――そうなんですか。今、ちゃんこ屋さんになっているあそこは、お父様の代からずっと?
うちは最初、新富町に部屋があって、私もそこで生まれて5歳までいましたね。でも稽古場がない部屋でね。というのも、うちのおやじはもともと大阪の三保が関部屋に入門して、東京場所のときは間借りして、国技館に通ってたの。東京で部屋をもった三保が関は、おやじが最初です。新富町の部屋は、1階でお袋が小料理屋みたいのもやっていて、隣が芸者の見番でね。粋なところでしたよ。そのころ、新富町は都電が通っていて、おやじは稽古場のある部屋を持とうと、都電で森下まで探しに行って見つけたらしいです。元は、お妾さんのお屋敷だったから、立派でしたよ。庭があって、そこに稽古場を作ってね。2階の窓から、両国の花火が見えたりしました。何回か増築しているんだけど、今の建物は、北の湖さんが横綱になったときに建てたから、昭和50年かな。
――今はちゃんこ屋さんが大人気ですね。
ありがたいことにね。私も店にいるときは歌ったりしますよ。
――それは最高のサービスですね!!!現役時代もレコードを出されていましたが、歌はいつからお好きだったんですか。
力士の前に歌手になりたかったんですよ。小学校のとき、コーラス部でテレビに出たこともあるんですよ。テレビ来るって言ったら、お袋が蝶ネクタイつけてくれて、1人だけ蝶ネクタイつけて目立つから、インタビューもされちゃった(笑)。
――小さいころから美形だったから目立ったんじゃないですか?
そんなこんなで、歌は小さいころが好きなんですよ。
――力士になる夢、歌手になる夢、両方叶えてすごいですね!今日は今年を振り返るだけでなく、増位山さんご自身のこともたくさん伺えて、私の夢が叶いました。ありがとうございました!
増位山太志郎(ますいやま たいしろう)
昭和23年、大関・増位山の長男として生まれる。高校時代は水泳選手として活躍。卒業前の昭和42年に父親が師匠の三保ケ関部屋に入門、初土俵。昭和45年新入幕、昭和55年大関昇進。史上初の父子大関が誕生した。多彩な技を繰り出す華のある相撲で土俵も盛り上げた。昭和56年引退。年寄・小野川を経て昭和59年に三保ケ関部屋を継承した。一方、現役中の昭和47年『いろは恋歌』で歌手デビュー。昭和49年発売の『そんな夕子にほれました』が120万枚超、昭和52年発売の『そんな女のひとりごと』が140万枚超の大ヒットを連発。平成25年日本相撲協会を定年退職し、歌手活動に専念している。
photo:Mariko Nakagawa