30代木村庄之助(2代目容堂)こと鵜池保介さんの「相撲字を書こう!」第4弾は相撲字応用編。現代の日常生活で筆を使う機会といえば、年賀状や冠婚葬祭などですが、今回は鵜池さんに「賀正」と「御祝」という文字を相撲字で書いていただきました(動画アリ!)。そして、最終回のおまけとして、鵜池さんの行司エピソードもお届けします。
―「賀正」のポイントを教えてください。
「賀」は横棒が多く、くっつきがちなので、あまり太く書きすぎないように注意してください。全体的に少し右上がりを意識するといいでしょう。ただし、やりすぎるとぶさいくになりますから気をつけて。「正」の字の一番下の横棒は少し反らせるように丸みをもたせるときれいです。
―「賀」という字は四股名でありましたっけ?
結構ありましたよ。佐賀ノ花とか、佐賀ノ海とか、佐賀昇ってのもいたな。二所ノ関部屋に多いんですよ。
―佐賀出身力士ってことですか?
そうです。8代目の二所ノ関さん(佐賀ノ花)が佐賀出身だったからでしょうね。
―「御祝」のポイントを教えてください。
「御」は画数が多いですから、縦棒が太くなりすぎないように注意してください。「御」のまん中の部位で、一番下の横棒は「山」を思い出して右上がりに斜めにもっていく感じで。「祝」の最後の跳ねは「花」の「ヒ」の跳ねと同じです。
行司キャリアは豆行司としてスタート
―では、最後に相撲字以外のところで行司についてお伺いできればと思います。そもそも、行司になられたきっかけはなんだったんでしょうか?
私は佐賀県の出身なのですが、九州は昔から相撲がさかんだったんですよ。戦争が終わって、海軍上がりの人たちが、北九州の製鉄所や、佐賀や長崎の造船所、炭鉱なんかに仕事を求めてやってきて、みんな力自慢だから相撲をやっていたんです。佐賀、長崎、福岡、熊本の4県対抗相撲大会というのもありました。でも、行司がなかなかいなくて、相撲好きだった父親にやれと言われてやったのが最初です。小学校4年生のときです。子どもの行司を豆行司といって、口コミでいろんなところから声がかかりまして、軍艦島の相撲大会とかも行きましたよ。
―鉱夫さんたちの相撲大会ですか?
はい。当時5000人くらいいましたから、1日じゃ終わらなくて2日かけてやってましたね。
―そういう大会では、豆行司がやるという習慣だったんでしょうか?
そんなことないです。相撲がさかんすぎて、行司が不足していたっていうのもありますし、とにかく父親が相撲好きでね。自分でも若いころは宮相撲なんかで、素人相撲をとってまして、化粧まわしも持っていたし、相撲甚句もやっていました。巡業の勧進元も2度ほどやっていました。2度目は羽黒山と照国の時代で、横綱がくるっていうんで2万人くらい集まって、大騒ぎでしたよ。
―大相撲に入られたのはそのお父様が決められたとか?
はい。22代の庄之助親方が弟子を探しているって言うのを聞いて、勝手に話をまとめてきたんです。ある日突然、高校をやめさせられて(笑)。それで、22代庄之助親方の家に住み込みで弟子入りしました。
―相撲部屋に住まなかったんですね?
親方が、行司は部屋住まいすると遊んでばっかりでろくなことがないって言ってね(笑)。当時3人くらい庄之助親方の家に弟子がいましたよ。私には逆にこれがよかったようです。
―でも始終親方と一緒じゃしんどくなかったですか?
窮屈でしたが、私は高校中退の17歳での入門でしょ。当時としてはかなり遅いんです。昔は小学生で入門する人もいましたから。だから、師匠の家でいやでも勉強するしかない環境に置かれたことはよかったと思います。
―師匠の家は両国だったんですか?
はい。時津風部屋の近くです。時津風部屋は昔も今と同じ場所にあって、ちょうどその裏が銭湯だったんですよ。私の師匠は銭湯が好きで、内風呂を作らなかったほど。私も銭湯通いで、その時にちょっと息抜きして長風呂したり、夏にアイスクリーム食べて帰ってきたりすると「遅い!」って怒られましたよ(笑)。
―相撲字はどなたかについて勉強されたんですか?
兄弟子の庄二郎さんには相撲字はもちろん、いろいろと教えてもらいました。相撲字はやっぱりうまかったですね。
急遽裁くことになった歴史的な一番
―思い出に残っている取組はありますか?
やっぱり貴乃花と武蔵丸の優勝決定戦ですね。最初は平成13年の一月場所。私が伊之助になった場所ですよ。
―普通は庄之助さんが裁かれると思ってしまいますが……。
そうなんです。まさか優勝決定戦を裁くとは思わずに、今日武蔵丸が本割で勝てば、優勝決定戦が見られるな~なんて、他人事のように、呑気に国技館に行ったら、庄之助親方から「今日決定戦になったら、お前やってくれよ」って言われて。
―緊張しましたか?
しましたね。本割が終わって決定戦までの10分間、花道に立っていてもう胸がどきどきでしたが、不思議なことに土俵に上がるとスーッと落ち着きましたね。歓声がすごかったのを覚えています。私が土俵に上がると、歓声が頭の上でわーわー言ってる感じだったのが、両横綱が土俵に上がると、まるで土俵の下から湧き上がるような歓声に変わって、土俵ごと持ち上げられるんじゃないかと思ったほどです。もう、これは行司冥利につきると思いました。しかも、これが一月場所と五月場所の2回
ありましたから、非常によい思い出となりました。
―歴史的な瞬間に立ち会われたわけですもんね。すごい。現役を引退されてからも、行司の経験を生かして活動されていましたね。
ご縁があって、大河ドラマ(2004年の『新撰組!』)や映画に行司役で出演させていただいたりしました。
―映画は『SAYURI』ですね。ハリウッドに行かれたんですよね!どのような経緯で出演が決まったんですか?
同じ出羽海部屋だった舞の海さんが声をかけてくれたんです。電話がかかってきて、映画で相撲のシーンに出演するんですけど、行司役やってくれません?って。国技館でも借りて撮影するのかと思って、「いいよー」なんて軽く答えたら、撮影はハリウッドって言われてびっくりしました。
―パスポートとかお持ちだったんですか?
持ってないですよ。番付の担当だったから海外巡業も行かなかったし、これが初めての海外でした。準備は舞の海さんが全部やってくれましたよ。
―撮影はどんな感じでした?
控室がね、キャンピングカーなんです。私にも舞の海さんにも1台ずつあって。でも、さびしいから舞の海さんに一緒にいようよって言って、2人で1台にいましたよ。あと、役所広司さんと渡辺謙さんが出演されていて、少しお話して写真を一緒に撮っていただいたのがいい思い出です。
―相撲字のほうは退職されてから書いていらっしゃいますか?
いや、ぜんぜん書いてませんね。
―それはもったいない! でも久しぶりに書かれたのに、まったく現役時代そのままですね。
もう体に染みついているのかもしれませんね。
―ぜひ、次回は相撲字講習会を開いてください!
機会があればぜひ。
今回の特集では、たくさんの相撲字を書いていただきました。相撲字はどれも同じように見えても、書き手によってずいぶん個性があるもので、鵜池さんの字は春日野理事長(栃錦さん)がほめられたように(1時間目参照)、丸みがあって、まさにアンコ型の力士を体現したような字。晴れやかで美しく、優しさに溢れていて、お人柄も現しているように感じられます。いつまでも見ていたいと思わせる、魅力のある相撲字でした。
緊急告知!
30代木村庄之助さんの「相撲字講座」開催が決定しました!
行司さん御用達の書道用品店・光雲堂さんにて、4月に開催予定。
詳細は近日発表! 相撲字の名手に直接相撲字を教えていただける貴重な機会をお見逃しなく!
三十代木村庄之助こと
鵜池保介さん
(ういけ・やすすけ)
昭和13年生まれ、佐賀県出身。
昭和33年3月、17歳で22代木村庄之助に弟子入り。木村保之介(やすのすけ)として初土俵、昭和41年に十両格昇進を機に3代目木村林之介(りんのすけ)を襲名、昭和50年に幕内格に昇進し、平成2年に2代目木村容堂を襲名。平成7年には三役格となり、平成13年一月場所で立行司に昇格し31代式守伊之助を襲名。同年十一月場所より30代木村庄之助を襲名し、平成15年一月場所で定年退職。現役中は出羽海部屋に所属。