2代目&3代目木村容堂 新旧番付書き手による相撲字対談レポート

2018年12月16日に開催された、2代目&3代目木村容堂のお二方による、新旧番付書き手「相撲字対談」は大好評のうちに無事終了いたしました。ご参加いただきました皆様、誠にありがとうございました。今回はその様子を前編・後編に分けてご紹介したいと思います。後編の最後には超レアなプレゼントもご用意しておりますので、お見逃しなく!

トークショーは3部構成で、まずは2代目木村容堂、30代木村庄之助こと鵜池保介さん(以下:鵜池さん)と3代目木村容堂さん(以下:容堂さん)のキャリアを追いながらお2人に当時のエピソードを伺いました。続いて、番付書きというお仕事について、そして最後にお2人に同じ字を書いていただく実演コーナー。前編では、パート1と2の模様をお届けします。

今回の会場は相撲とは非常にゆかりの深い場所。江戸の勧進相撲で知られる両国・回向院のとなりにあるシティコア両国という施設にある和室で開催されました。このシティコア両国は初代国技館があったところに建てられた建物です。当時の土俵があった場所が何気なく残っていたり(「おすもうブラリ」両国の記事でも紹介しています)。現在の国技館も近いため、相撲博物館で「行司装束展」(12月26日まで!)をご覧になってから来場された方もいらっしゃいました。

まずはお2人の行司年表を見ながらトークスタート!

 

パート1:2代&3代の容堂年表

-まず、昭和13年に鵜池さんが佐賀県神埼郡にお生まれになって、子どもの頃から「豆行司」として地元の相撲大会で活躍されていた。

鵜池:行司をやる人がいなくてね。父親からの命令でやらされてました。小学校4年生のときからやってまして、中学生になったころに他に行司をやってくれる人がでてきて「もうやらなくていい」って言われて……。ホッとしたことを覚えています。

―豆行司の装束はどうされていたんですか?
鵜池:親父が京都から取り寄せましてね。

―本格的な。
鵜池:そうです。

-それが高校2年生のときに、またまたお父様の命令で行司として大相撲に入門されたということですが……これは?
鵜池:それはね(笑)、今では考えられないことなんですが、学校から帰ってきましたら「お前を行司にすることに決めたから、明日退学届を出してこい!」って言われまして、翌日姉に付き添われて学校に行ったんです。そしたら、突然の退学届だったもんですから、先生も友だちもびっくりしまして、何より私自身がびっくりしましたよ(笑)。17歳で入門というのは当時としては遅いですし、いやだって言ったんですが、「もう約束したからダメだ!お前は行司になれ」って父親に言われまして。昔は父親の意見は絶対的なものでしたから、それに逆らうことができなくて、いやいや行司になりました。

(場内笑)

―出羽海部屋に入門されましたが何かつながりがあったんですか?
鵜池:出羽海部屋出身の十両力士で佐賀の山っていう人がいましてね、その方とお付き合いがあって、その人が22代庄之助親方が行司の弟子を探しているっていう話をもってきたそうです。後で聞いた話しですが、うちの父親が行司の中でも22代庄之助親方は一番の行司だって思っていたようで、ぜひうちのせがれをやろうっていうことだったらしいんですよ。

―お父様はすごくうれしかったんじゃないでしょうか。
鵜池:そうでしょうね。

―それが17歳のとき。入門されて、五月場所で木村保之助で初土俵。これは国技館?
鵜池:そうです。当時はまだ年4場所しかなかった頃です。

―鵜池さんが入門された6年後、昭和36年になりますと、容堂おさんがお生まれになる。2代目容堂さんは幕下昇進。幕下昇進は早かったんですね。
鵜池:十両まで早かったですね。

―昭和41年の11月場所で十両格に昇進され、木村林之助を襲名。ここまで入門して11年。今と比べて割と早かったんでしょうか?
鵜池:今でも昔でも、11年は早かったですね。順調にいって16~7年かかるっていわれますから、上がったときは「お前ほど運のいいやつはいない」なんて言われました。上がみんなやめていきましたからね(笑)。林之助は師匠(22代庄之助親方)が若いときに名乗っていた名前でして、初代が師匠、2代目が28代庄之助になった方で、私が3代目。

―番付書きの助手になられたのは?
鵜池:助手になったのは45年ですね。

―そしていよいよ、昭和52年に3代目の容堂さんが九重部屋に入門される。これは16歳のときですが、入門のきっかけは?
容堂:きっかけといいますが、ただなんとなくということですね……。子どものころから相撲が好きで、テレビや当時は蔵前国技館に行ったりして相撲を見ていて、こんな仕事ができたらいいなってなんとなくですね。子どもですからあまり深く考えずに。

―そのときの九重部屋は北の富士さん?
容堂:そうです。今、NHKの解説されている。

―北の富士さんがお好きだった?
容堂:はい。手紙を書いたら、もうすぐに来なさいと返事がきまして。当時はあんまりなり手がいなくて若手が少ない時代でしたから。今は入門の際に相撲協会の面接があるんですが、当時は何もなくて、書類を持っていって、そのときの担当親方が元関脇・北の洋(きたのなだ)の武隈親方が書類を受け取って「あぁ、じゃがんばれよ」って一言ですみました(笑)。

―その一言で入門が決まったわけですね。木村恵之助として初土俵?
容堂:入ってすぐは本名でしたが、すぐに恵之助と名前がつきました。

―そして、昭和59年1月場所で鵜池さんが幕内格に昇進して、昭和60年1月場所で戦後5人目の番付書き手となられる。書き手になった経緯というのは?
鵜池:前書いていた人が亡くなりまして、でも私はまだ十両だったんです。相撲っていうのは番付で評価しますので、十両の行司が番付を書くっていうのはダメだから、庄二郎さんという方がいまして、その方が、私が幕内に上がるまでということで書いておられました。

―一方、容堂さんは昭和62年に幕下に上がられて、その翌年から当時木村林之助だった鵜池さんの助手になられる。容堂さんが助手になられた経緯というのは?
鵜池:行司部屋で若手の相撲字の指導をしていたとき*1、私はふだんは番付を書いてましたからその場には居合わせなかったんですが、たまたま、行司部屋に行く用事があって、若手が書いてるのを見てたらですね、容堂さんは序二段くらいだったと思いますが、「この子はすごいなぁ」って思いましてね。そのときから将来は助手にしようって思ってました。三段目のときに、監督*2の行司に「恵之助を助手にしたい」といいましたら、「幕下に上がったらいいけど、三段目じゃだめだ」といわれて、じゃぁ、幕下に上がったらすぐに助手にしますから、他の役をつけないでくださいって約束しまして。今は助手は2人ですが、あの当時助手は1人だったんです。それで相撲協会にお願いして、人間生身だから、いつ何があるかわかりませんから助手は2人必要ですってお願いしまして、2人にしてもらいました。

*1:本場所も巡業もない2月と6月は若手行司が相撲字教習を行っているが、番付書きの期間とかぶるため、書き手は参加することがない。2018年12月現在、10代の行司が巡業に参加しなくなったため、巡業中も10代の行司は相撲字の稽古を行っている。

*2:2年に一回行司会の選挙で監督役の行司を3名選出し、監督はおもに若手の指導や行司の土俵以外の仕事の担当人事などを担当する。

―皆さんもご存知だと思いますが、行司さんっていろんなお仕事がありまして、土俵を務めるのは第一なんですが、土俵の外では相撲字のほか、場内アナウンスとかさまざまなお仕事があるんですね。その放送とかに恵之介さんがまわらないように、鵜池さんが目をつけて予約していた(笑)ということなんですねぇ(笑)。そして、助手となられて、ご指導はどんな感じで?
鵜池:いや、私はとくに指導はしません。本人の努力です。本人次第。どうしてもわからないところだけ、兄弟子に聞くとか。決して教えてくれませんから。自分から行かなきゃダメです。ここはどういう風に書いたらいいですか? とか聞かないと教えてくれません。よく言われましたよ。「ここは学校じゃないんだから。やる気がない者は去れ」ってね。

―助手に指名されたとき容堂さんのお気持ちは?
容堂:いや、もう責任の重い仕事ですから、身が引き締まるというか。それと、自分のこういうところを認めていただいたというのはすごく感謝しています。

 

―そして、平成2年に鵜池さんが2代目容堂を襲名される。
鵜池:これも師匠が名乗っていた名前で、昭和11年に三役格に上がって林之助から容堂を襲名してるんですが、私は最初、幕内に上がったときにそろそろ容堂を襲名したらどうかっていわれましたんです。でも、師匠が三役に上がったときに襲名したもんですから、とんでもないって受けなかった。で、3回目の話があったときにようやく、では宜しくお願いしますということで。

―平成7年に三役格に昇進され、平成13年1月場所伊之助になられて番付書きを交代されて、同じ年の11月場所に庄之助を襲名、15年に定年退職されるわけですが、容堂さんは平成19年に戦後7人目の番付書き手となられる。その時の心境は?
容堂:いよいよ責任が重くなったということですね。そして、毎回毎回間違いがなく書くということ。上手いヘタ以前の問題で、とにかく間違いなく。夢中で書いてきました。

―容堂さんは平成28年に三代目容堂を襲名されますが、このきっかけは?
鵜池:それは、私が容堂という名前に非常に執着がありまして、立行司になってから容堂という名前が番付から消えてしまって、現役のときはそれほど容堂という名前が番付から消えたことに対してさびしさを感じなかったんですが、やめてから非常にさびしくて、誰かに容堂を継いでもらいたいなぁと思っていろいろ聞いたんですよ。そしたら、「それはもう恵之介さんが一番ですよ」って言われて、それで、御茶ノ水の穂高*3だったね。*3:御茶ノ水駅近くにある喫茶店。鵜池さんのお気に入りのお店だそう。
容堂:はい。
鵜池:そこで「容堂を継いでくれないか」って聞いたら、気持ちよく継いでくれましたんでホッとしました。

―容堂さんはその話がきたときは?
容堂:最初ですね、話があるから会いたいってことで、何の話しかなぁ(笑)って、思って……。番付の字のことで、こんな字書いてたらだめだって叱られるのかと思って(笑)、そしたら容堂という名前を継いでくれないかと言われて。部屋も違いますし、そういうことはまったく頭になかったんですが、大変名誉なことですので、ありがたく受けることにいたしました。

-出羽海部屋の名前というわけではないんですか?
鵜池:それはないです。師匠が香川の人なんです。同じ四国の高知の殿様で幕末に山内容堂って人がいましたでしょ。

―相撲好きで有名なお殿様ですね。
鵜池:その容堂っていう名前が師匠は好きで、自分が三役に上がったら容堂になろうって思ってたそうです。この名前はいい名前なんだって自画自賛してました(笑)。生命判断の人もそういってたという話も聞きました。

―容堂を継がれるにあたって受け継がれたものは?
鵜池:いやーとくには……、あれか……。
容堂:ハンコぐらいですかね(笑)。

―ハンコというのは?
容堂:番付の横に押したり、封筒の裏とかに押すものですね。幸い2代とは入ってなかったんで(笑)引き続き使えました。

 

―師匠としての鵜池さんはどのような方でしたか?
容堂:努力家というか、勤勉というか、仕事に対して厳しい方です。相撲字もそうですし。大いに見習うべき点が多いです。私はこのとおりいい加減なんで(笑)。仕事の面で大変勉強させていただきました。

―鵜池さんが退職されるときはやっぱりさびしかったですか?
容堂:いや・・・、さびしいということはない(笑)。ですね。いつでも会おうと思えば会えますし。
鵜池:さびしさはないですよ。辞めたときはね、もうホッとしました。正直、現役のときは本場所中は寝つきが悪くてですね、最後の一月場所終わって千秋楽の晩からよく眠れるようになりました(笑)。

―容堂さんも眠れなくなります?
容堂:いや、私はとくに関係なく(笑)。寝るときは寝れますね。
鵜池:個人差がありますね。

 

パート2:番付ができあがるまで

 

―さて、では次に番付書きについてお話を伺っていきたいと思います。千秋楽の3日後に番付編成会議があるわけですが、それに行司さんが書記として参加されるんですか?
容堂:そうです。書き手と助手と3名で出席します。番付編成会議が終わると、番付を書く白い紙に、助手が鉛筆で線を引いて、まわりの黒い枠を塗って、ほか細かい資料を整理してそろえる。番付を書く書き手は筆を持って待ってるだけですから。そこまでの段取りを助手が全部やります。間違いのないように。

―お書きになるのはどちらで?
容堂:書き手の自宅で。おおっぴらによそで出せるものではありませんから、自宅で、助手と3人集まって資料を整理して。現在でしたら、助手の2人は私の家に、準備をする書く前と、書き終わってから間違いがないか読みあわせをする最後の日と、2日集まってやっています。

―今の助手というのは?
容堂:幕内格の木村要之助と十両格の木村勘九郎です。

―実際は1メートル10㎝×80㎝の紙に書かれるわけですが、かなり大きな机が必要になりそうですが……どんな机で?
容堂:私の場合、昔のこたつくらいのテーブルです。紙の横幅より少し大きいくらいの机で、座布団敷いてあぐらかいて書いてます。

―床に座って?
容堂:そうですね。右側に筆をおいて、左に書類をおいて、すぐ手が届くようにして書きますね。

―鵜池さんも?机にすわって?
鵜池:はい。

―その机は受け継がれたりはしない?(笑)
容堂:いやぁ、書く前から家にあったテーブルですよ(笑)。

―今現在、番付はどのようなお部屋で書かれてるんですか?
容堂:普通の部屋ですよ(笑)でも仕事専用といいますか。

―番付を書くための部屋?
容堂:そうですね。その他の仕事をしたりもしますし。

―書斎的な。
容堂:そうですね。そんなしゃれた名前のような部屋じゃないですけど(笑)。
―番付は極秘のものですが、書いてる間はもう誰も入れずに密室状態ですか?
容堂:家族がのぞきにきたりはしますよ。子どもが小さいころは隣にもう一つ机をおいて、そこで勉強させて見張りながら(笑)。あと、子どもが遊んでほしくて、そろそろ終わらないかなって、終わるのを伺いに来たりね(笑)。

―紙はどんな紙に?
容堂:ケント紙です。市販されてる一番大きいサイズですね。

―協会から支給されるんですか?
容堂:協会通して注文する形です。

―おうちに何枚かストックがあるんですか?
容堂:1枚か2枚はありますが、あとは助手の人が何枚か。買うときも1枚単位で買うのではなくて、1年に1回とか2年に1回まとめて買ったりします。相撲協会からこういうものを書いてと依頼があれば、その紙で書くこともあります。

―一番最初に書くのは?
容堂:私は細かい文字からかきます。幕下、三段目、序二段、序の口と時間がかかるところですね。幕内と十両の大きいところは、なるべく天気がいい日に書くようにしています。乾きが早いというか。どうしても墨をたくさん使いますので。できれば梅雨時とかは仕事したくないですね。

―夏場だと手が湿ってしまったりしそうですが。
容堂:それは気を付けています。一回、書き終わったところに手をついて書いてたんです。当然、間に紙をはさんでいましたが、それを通して汗がにじんでしまって、墨がしみて汚したことがありまして。

―ショックですね。
容堂:あーそれはもう。それは修正するのに時間がかかりまして。それからはもう節電とか関係なく冷房を強にして(笑)。やってます。そのときに夏休みの宿題をやりに子どもが入ってくるんです。涼しいからここでやらせてくれって(笑)。

―あっちもこっちもで大変ですね。
容堂:まぁ、汚さないようにというのが第一ですから。

―順番としては左から右ですか?
容堂:そうですね。どうしても乾いてないところをすってしまうと汚す原因になりますから。左から右ですね。

―昔から変わらず?
鵜池:そうです。

―先ほどよごしてしまったとおっしゃいましたがそういうときはどうされるんですか?
容堂:筆から墨がとんでつくときなどは、カミソリとかナイフで削ります。ひどく汚したときは、白の絵の具で塗りましたね。

―修正液ではなく?
容堂:修正液も使うことはありますが、絵の具のほうが使いやすいんです。

―鵜池さん以前、失敗したときにタバコのフィルムを使うとおっしゃってましたが。
鵜池:タバコの箱を包んであるフィルムですね。カミソリで削った後、ギザギザしてて描きにくいので、あのフィルムをあててならすと、ツルツルになるんですよ。

―そういう修正法は師匠から弟子に伝授されるんでしょうか。
容堂:伝授というか見て覚えるんですね。
鵜池:でも人それぞれのやり方がありますからね。

―なかなか間違えないで書くのはすごいですが、もし間違えると裏技を使われるんですね。
容堂:でも、意外と間違わないですね。これが板番付だと修正がきかないですから。墨でもこぼそうもんなら、全部かんなで削ってもらって最初からやり直しになります。

―最初から!
容堂:若手のころは地方巡業の板番付を数書いてますから、間違わないように慎重に書くということが染みついてますね。

―失敗もされないとは、すごい。この番付を書くのにかかる時間はどれくらいなんでしょうか?
容堂:私は1日8時間と決めてます。午前中に4時間、午後に4時間ですかね。それ以上はやらないように。

―集中力が続きませんか?
容堂:集中もありますし、それ以上やると腱鞘炎になったり、指が痛くなることがありまして、食事のときに箸が使えなくなってフォークでごはんを食べていたことがあるので気を付けています。

―何日くらいで書きあげるのでしょう?
容堂:締切に合わせて、日にちがないときは短くて1週間、長くて10日くらいです。それ以上やるとだらけてきてしまうというか……。集中してこれくらいの期間でやります。

―書き終わったときの気持ちは?
容堂:アーやっと終わったなーって感じですね。

―書き上げたものは、相撲協会に納品されると思うんですが、どうやって納品されるんでしょうか。
容堂:まず理事長室に行って、理事長、執行部の親方衆に見てもらう。そのときに印刷会社の人が待ってまして、渡して印刷にとりかかります。

―ご自宅から国技館にどうやって持って行かれるんですか?
容堂:書類を入れる、長い筒があります。よく製図とかされてる学生さんが持ってるような筒に入れてもっていきます。

―容堂さん自ら?
容堂:それは助手の人が。最後の読み合わせ、確認作業おわりましたら、助手が持って帰りまして、翌日に相撲協会に私と助手2人、三人そろって理事長室に持っていきます。

―何部くらい刷るんでしょうか?
容堂:場所によって違うようですが、平均して45万枚くらいです。各部屋の注文、国技館売店で販売、一般の方の申し込みがあります。

―45万枚なんて、本でいったらすごいベストセラーですよね。
容堂:その割にはあまり貼ってあるのみたことないですけどね(笑)。

―今は印刷会社の人がそのまま持っていかれてデジタル印刷だと思うんですが、デジタル化される前はどうされてたんですか?
容堂:写真製版といいまして、刷り上がった番付と同じ大きさのフィルムで撮影しまして、印刷していたみたいです。いまではフロッピーか何かに保存されているみたいです。

―昔と今で番付の文字の大きさとか変わったことはあるんでしょうか?
容堂:ないですね。力士の数が変わったりということはありましたけど、基本的には変わってないと思います。

―今容堂さんは、一番下の小さい文字からとおっしゃってましたが、鵜池さんは?
鵜池:私は下から書いてました。下から上へずっと上がってくる。序の口、序二段。一番いやなところから。細くて人数の多いところから書きます。三段目、幕下までを先に書いて、そこから年寄ですね。親方衆の名前を書いて、ずっと上がっていくんですね。十両書いて、幕内は一番最後でした。

―容堂さんも?
容堂:私は親方衆を一番最後に書きます。力士は番付編成会議で確定しましたらそのままなんですが、親方衆の場合、急に退職したり、名跡が変わったりすることがありまして。審判の親方が体調不良につき辞任して替わりの人になりましたっていうことがあって、いよいよ明日持っていこうかっていうときにそういうことがあって、カミソリで消すどころじゃないですから、切り取って修正したことがありました。

緊急事態にも対処しなくてはならない番付書き。大変なお仕事です。そして、書き手によって少しずつ書き方も違うのですね。次回は後編、実演コーナーです。書き方はもちろん、同じ相撲字といっても書き手によって字に個性があります。お2人の見事な相撲字は必見です!

photo:Kaori MURAO

2代目容堂・30代木村庄之助こと
鵜池保介さん
木村林之助時代に番付の書き手となり、2代目容堂を襲名後、31代式守伊之助を襲名するまで11年間番付書きを務め、相撲字の名手といわれた。現役時代は出羽海部屋所属。

元・木村恵之助こと
3代目木村容堂さん
2007年11月場所より番付の書き手となる。鵜池さんが書き手を務めていた頃から助手を務めていた。九重部屋所属、2018年11月現在・三役格行司。

 

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