浅坂さんの「ニックネーム力士列伝」〜その5〜

伊勢ノ海部屋マネージャー・浅坂さんの連載第5回目!

大相撲の歴史に詳しい浅坂さんが、ニックネームから名物力士を語る人気シリーズ。 まだまだあります!ということで、第5回目です。

今回は記憶に新しい平成の力士も登場。 浅坂さんの解説&浅坂さん私物お宝画像でご紹介します!

今回のラインナップ
【名前にちなんでます編】
【動物編】
【乗り物編】
【そのほかまだまだあります編】

 

【名前にちなんでます編】

大阪太郎
朝潮太郎[第46代横綱]
高砂部屋に5人いる朝潮太郎の4代目、唯一の横綱。また、当時人気の加山雄三、長嶋茂雄と共に「胸毛の三大スター」と呼ばれ、毛蟹というアダ名もあった。
5回の優勝のうち4回が大阪場所で、その豪快な顔と胸毛で、少年マガジンの創刊号表紙を飾った、少年のアイドルでもあった。映画『日本誕生』では、伝説の神様「天之手力男神(あめのたぢからお)」の役を演じ、まさにはまり役だった。
あさしお・たろう 鹿児島県出身、高砂部屋、初土俵:昭和23年10月場所、入幕:昭和26年1月場所、引退:昭和37年1月場所

昭和36年大阪場所での最後の優勝の『週刊朝日』記事(浅坂さん私物)

 

蔵間天狗
蔵間龍也
[関脇]
時代劇の「鞍馬天狗」を文字ったものだが、本名で関脇に上がったときは、昭和天皇に当時の春日野理事長が「時期大関候補です」と説明したほどの有望力士であった。 地元にちなんで「近江富士」という四股名の話があったが、「スケールが小さい」と断ったという。この時代は「輪島」「荒瀬」「蜂矢」などの本名の力士がおり、改名の時期を逸したか。結局は、期待と裏腹に平凡な力士で終わってしまった。
くらま・たつや 滋賀県出身、時津風部屋、初土俵:昭和43年9月場所、入幕:昭和51年7月場所、 引退:平成元年9月場所

イラスト/てぶくろ星人

忍者ハットリ君
藤ノ川祐兒[前頭3]
本名は「服部」。当初、本名の「服部」として初土俵、その後藤ノ川に改名後、再び服部に。その本名・四股名から、藤子不二雄(A)による漫画『忍者ハットリくん』になぞらえてこう呼ばれた。 入門前は史上最多の学生タイトルを獲得、東海高校〜同志社大学に進んだインテリ力士であり、入門当時「横綱確実」「将来の理事長」とまでマスコミに騒がれた。しかし、 持病の腰痛により最高位は前頭3枚目、4年間の現役生活だった。最後も「ハットリ君は腰痛のため、引退でござる」と報道された。その後は民放テレビのゲストや新聞、 雑誌のコラムでも活躍した。
ふじのかわ・ゆうじ 愛知県出身、伊勢ノ海部屋、初土俵:昭和58年3月場所、入幕:昭和60年3月 場所、引退:昭和62年7月場所

でるでる出島
出島武春[大関]
郷土の横綱「輪島」にならったものでもないと思うが、大関に昇進しても最後まで本名で通した。立合の破壊力は抜群であった。鈴木その子が化粧回しを贈った「美肌の力士」としても有名。
でじま・たけはる 石川県出身、武蔵川部屋、初土俵:平成8年3月場所、入幕:平成9年3月場所、引退:平成21年7月場所(現在は大鳴戸親方/藤島部屋)

【動物&キャラ編】

南海の黒豹
琴ケ濱貞雄[大関]
浅黒い体、内掛けの名人で、1場所6回内掛けで勝ったこともあった。ひとつの技でこれだけ勝った力士もいないであろう。初代若ノ花とともに、先輩の力道山に鍛えられた話も有名で、小さい体を根性で補い、大関まで出世した。
ことがはま・さだお 香川県出身、二所ノ関部屋→佐渡ケ嶽部屋、初土俵:昭和20年11月場所、入幕:昭和25年5月場所、引退:昭和37年11月場所

イラスト/てぶくろ星人

ベコ
栃光正之[大関]
出身地の熊本県牛深市にちなみ、「ベコ」の名が。地味な存在ながら大関まで昇進したのは、努力の賜物であろう。名大関と呼ばれ、正代の大関昇進でまた注目された。
とちひかり・まさゆき 熊本県出身、春日野部屋、初土俵:昭和27年5月場所、入幕:昭和30年5月場所、引退:昭和41年1月場所

サラブレッド
柏戸剛[第47代横綱]
ご存知、伊勢ノ海部屋の伝統ある四股名は、この47代横綱により頂点を極め、その後、50年以上、襲名する力士が出ていない。「サラブレッド」は、血筋がよくて、よく育てられた競走馬という意味であるが、そのスピーディーな相撲っぷりは「柏戸は駆け足でやってくる」「行司も寄り倒して柏戸の勝ち」とアナウンサーが実況するほどであった。引退後は、鏡山部屋を創設したが、同部屋はこの2021年7月に51年の歴史を閉じ、本家伊勢ノ海部屋に吸収された。
かしわど・つよし 山形県出身、伊勢ノ海部屋、初土俵:昭和29年9月場所、入幕:昭和33年9月場所、引退:昭和44年7月場所

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関脇時代の颯爽とした姿。昭和35年少年雑誌グラビアより(浅坂さん私物)

北海の白熊
北天佑勝彦[大関]
均整のとれた体、豪快な語り口、色白の印象からついた呼び名。郷士の大先輩、北の湖の弟弟子として入門時から指折りの有望力士だった。ユニークな四股名をつける師匠として知られた三保ケ関親方(9代三保ケ関の先代増位山)の命名で、当時は他の部屋にも「旭天佑」「若天佑」「天佑山」などの四股名をつける力士が続出した。引退後、二十山部屋を興したが、早逝した。
ほくてんゆう・かつひこ 北海道出身、三保ケ関部屋、初土俵:昭和51年3月場所、入幕:昭和55年11月場所、引退:平成2年9月場所

ドラえもん
隆三杉太一[小結]
唄のうまさは角界一。レコードも出しているが、なんと言ってもその温厚な顔つきが「ドラえもん」と呼ばれ親しまれた。
たかみすぎ・たかかつ 神奈川県出身、二子山部屋、初土俵:昭和51年3月場所、入幕:昭和56年7月場所、引退:平成7年11月場所(現在は常盤山親方/常盤山部屋)
[常盤山親方の年男インタビューを読む]

白いウルフ
益荒雄宏夫[関脇]
精悍な面構えで、本名の「手島」時代から注目されていたが「益荒雄」という古来のイメージがぴったり合った力士。王者「千代の富士」の「ウルフ」を倒して「白いウルフ」と呼ばれたが、顔の迫力は本家の横綱以上のものがあった。
ますらお・ひろお 福岡県出身、押尾川部屋、初土俵:昭和54年3月場所、入幕:昭和60年9月場所、引退:平成2年7月場所

【乗り物編】

ヒコーキ
武蔵山武[第33代横綱]
その出世の早さからつけられたニックネーム。昭和初期の人気力士で、朝潮との対決は、実況レコードにもなる人気があった。沖ツ海との対戦で肘を負傷、春秋園事件などの印象も重なり、「悲劇の力士」のイメージが強いが、若い頃は颯爽としており、まさに「ヒコーキ」のイメージがぴったりの人気力士であった。
むさしやま・たけし 神奈川県出身、出羽ノ海部屋、初土俵:大正15年1月場所、入幕:昭和4年5月場所、引退:昭和14年5月場所

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昭和5年発売のレコード。武蔵山ー朝潮の実況国技館大相撲取組(浅坂さ ん私物)

おまけ!
出世が早い「ヒコーキ」もいれば、出世せずに幕内下位に長く居座って新入幕力士の出世を阻んだという「追いはぎ」も!

追いはぎ
金湊仁三郎[前頭5]
当時の花形、立浪三羽烏(双葉山・名寄岩・羽黒山)をみな下したり、新入幕力士の関門になり、「おいはぎ」と怖れられた。長寿を保ち、双葉と戦った生き証言者として、貴重な体験談話を残してもいる。永く二十山親方として、時津風親方の下で若手力士を指導した。
かねみなと・にさぶろう 千葉県出身、湊川部屋→振分部屋→湊川部屋、初土俵:昭和2年1月場所、入幕:昭和9年5月場所、引退:昭和18年1月場所

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昭和7年発行のブロマイド。怖い顔の「おいはぎ」(浅坂さん私物)

 

コンコルド
琴若央雄[前頭2]
長身、長い首から、その容姿が当時人気の飛行機・コンコルドに似ていて、こう呼ばれた。北海道増毛町の出身で郷土のCMにも出ていた。スケールの大きい力士であった。
ことわか・ちかお 北海道出身、佐渡ケ嶽部屋、初土俵:昭和46年7月場所、入幕:昭和53年3月場所、引退:昭和60年9月場所

 

【そのほかまだまだあります編】

三助
羽黒山政司[第36代横綱]
各段優勝して横綱に昇進した唯一の力士。両国の風呂屋で立浪親方に見出され、力士となったが、横綱になってからも先輩の前田山に「三助」と呼ばれて苦笑していたという。入門前の仕事があだ名になる力士も多いが、「三助」は羽黒山だけであろう。
*三助・・・銭湯で風呂焚きや客の背中を流したりする男性のこと。
はぐろやま・まさじ 新潟県出身、立浪部屋、初土俵:昭和9年1月場所、入幕:昭和12年5月場所、引退:昭和28年9月場所

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三助と呼ばれた小林青年もこんな立派な力士に「立浪三羽烏」が勢揃いの双葉山の土俵入りのブロマイド。露払いが羽黒山(右)、太刀持ちは名寄岩(左)(浅坂さん私物)

 

土俵の男
北葉山英俊[大関]
小さい体で粘る取り口から「土俵の男」と呼ばれた。村田秀雄が、その相撲っぷりに惚れ込んで歌った「男の土俵」は、当初は「土俵の男」というタイトルであった。
きたばやま・ひでとし 北海道出身、時津風部屋、初土俵:昭和29年5月場所、入幕:昭和33年11月場所、引退:昭和41年5月場所

 

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村田英雄が作詞作曲した「男の土俵」のモデルは大関北葉山だった。村田英雄のソノシートレコードの解説(浅坂さん私物)

 

むっつり右門(うもん)
豊山勝男[大関]
無口でインタビューには答えないが、美男で独身ということから、佐々木味津三(みつぞう)の小説『むっつり右門捕物帖』からそう呼ばれた。引退後の時津風理事長時代は、よく語り、話も上手であった。若者であった私などにも、挨拶を返してくれた。
ゆたかやま・かつお 新潟県出身、時津風部屋、初土俵:昭和36年3月場所、入幕:昭和37年1月場所、引退:昭和43年9月場所

 

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対戦後、支度部屋にてむっつり右門を決め込む大関豊山。昭和43年ごろの雑誌より(浅坂さん私物)

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昭和5年、65版目を重ねたベストセラー『右門捕物帖』(浅坂さん私物)

プリンス
貴ノ花利彰(初代)[大関]
初代若ノ花の実弟として「花田」の本名で17歳で十両に昇進した。その人気と期待度は、横綱にはなれなかったものの戦後の昭和No1といえるかもしれない。
小さな体で真っ向勝負、大鵬に最後の黒星をつけ、天覧相撲での輪島との水入り熱戦、横綱北の富士とのかばい手論争の大勝負、高見山との顔面から落ちる決定戦と、数々の印象に残る相撲を展開し、藤島親方としても多くの名力士を育てた。
たかのはな・としあき 青森県出身、二子山部屋、初土俵:昭和40年5月場所、入幕:昭和43年11月場所、引退:昭和56年1月場所

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浅坂さんんお姉様画

 

黄金の左
輪島大士[第54代横綱]
学生出身初の横綱であったが、天才と呼ばれ、北の湖と「輪湖時代」を作り、そのまわしの色と左四つの型で「黄金の左」といわれた。同時代、ボクシングのガッツ石松が「幻の右」といわれたのと対称的。
わじま・ひろし 石川県出身、花籠部屋、初土俵:昭和45年1月場所、入幕:昭和46年1月場所、引退:昭和56年3月場所

ムーミン
大寿山忠明[関脇]
その顔つきから、アニメのムーミンと呼ばれたが、幕内に64場所もいた実力者。同期の若嶋津と出世を争い、ほぼ同時期に出世した。引退後に花籠部屋を興した。
だいじゅやま・ただあき 新潟県出身、二子山部屋、初土俵:昭和50年3月場所、入幕:昭和55年9月場所、引退:平成3年5月場所(現在は花籠親方/高田川部屋)

浅坂直人
あささか・なおと 伊勢ノ海部屋マネジャー。北海道利尻島生まれ。札幌旭丘高校出身。元三段目・雪光山(昭和55年五月場所初土俵、平成4年九月場所引退)。同期の関取は栃ノ華、旭道山。相撲文化を愛し、相撲関連書籍、資料を多数所有し、専門誌の連載や講演も行う。相撲趣味の会会員。好きなアーティストはジェフ・ベック、エリック・クラプトン、アニマルズ、ザ・ショッキングブルー、日本のGSなど。

(写真)現役時代の浅坂さん(雪光山)。巡業でちゃんこを作っているところ。

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参考資料:『大相撲人物大事典』(相撲編集部編 ベースボール・マガジン社)

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